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三作家連続個展サーフェステンション

W+K+gallery / 東京・中目黒

「誤読について」

”伊邪那美が伊奘諾を追い掛ける坂が、

あの世とこの世の境になるということは、遠さ

つまり距離そのものが境界面になりうるということを示す。

私たちは坂を岩戸で塞いだ。

対面で戸を叩き合い約束を交わした。

私はこれからそれを絵画の約束としよう。”

誤読については、絵画史に依拠する部分が大きい。

ギリシャからローマに移行するとき、彫刻の精神性が誤読されたように、

卑近、印象派絵画が急速に日本に輸入され、

内部の美意識が誤って解釈されたそれが歪みになり現在へと続 いている。

光画が写真へと、写真派が写実派へとロケット鉛筆のように、

誤訳は続き本来の性質と異なった 表面を作ることになってしまった。


しかし私はその誤読が持つ物語を否定したいわけではない。

そこに立ち上がったエネルギーはそっくりそのまま、

異なる誤読へとすり替えられる可能性を持っているからだ。

私はその可能性に賭けている。

 

私たちは表面からしか物事を読解することができない。

内部を深く知るには、長く時間を必要とするものだ。

伝承とはそうして成り立ってきた。

それこそが美の精神の系譜というべきものだろう。

それをまた文化と呼ぶならば、それをいつも切断してきたのは戦争である。

ならば文化に携わるものとして、戦争という概念は除くべきものに置かねばならない。

 

北から火炎瓶が投げられた。

 

この有事と芸能人の不倫のニュースの瑣末な事、

この顛倒をどう転倒させようか。

私は近頃そのような事を考えている。

092017

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